ハワイの人々のために設立された教会(1839-1981)

当時、ハワイの伝道団体のトップであったハイラム・ビンガン師は、ホノルルに置ける2番目の教会(1番目はカワイアハオ教会)を創設してほしいと、ハワイの人々から請願されていました。
ハワイ島の長であったカクアナオアは、当時13000もの人々が住んでいた、ホノルルのカウマカピリ地区に建設することを求め、人々はローウェル・スミス師を牧師として求めたのです。
そして1837年、年に1度の「Aha Paeaina」(伝道団体のプログラム)において、
民衆のための教会の建設が認められました。
ローウェル・スミス師はカウマカピリのベレタニア通りに敷地を与えられ、教会は1838年に建設に着手、かやぶき屋根と日干しレンガで作られ、2500人を収容できる大きな教会として生まれたカウマカピリ教会は、1839年8月29日に奉納されました。
1865年、カメハメハ5世が死に近づいていた時、彼はバーニス師へ後継者になってほしいと頼みましたが断られました。そこで法に従って選挙が行なわれ、カウマカピリ教会は、この時から、政治上の重大な局面の時に、ホノルルの町の集会所として使用されました。

2回目の建築―2つの塔を持つ教会の建設(1888−1900)

1881年、新しい教会の建設のために今までの
建物は取り壊されました。礎石は、新しく王女となったリリウオカラニ王女によって、
彼女の誕生日だった1881年9月3日に置かれたのです。
当初の設計は、教会の1階だけで“十字架”のスタイルにするつもりでした。しかし、教会の建設に興味のあったカラカウア大王は、「人は、2本の腕、2つの目、2つの耳、2本の足を持っている。だから教会にも2つ尖塔があるべきだ」と主張し、デザインは変更されました。
その後、7年の歳月と65万ドルをかけて、新しい建物は高い最下部、講堂への外部階段を持つ形で1888年6月10日の日曜日に完成。教会は、間違いなく印象的なランドマークであり、そして到着する船および、村にいる旅行者に見える1番の目印でした。この教会が、現在の「フリーストア」の先駆けだったかもしれません。 その地下には、チャイナタウンで暮らしていた人々のための織物や、価値ある宝石の倉庫としても使われました。
1900年1月20日に災難は突然起こりました。チャイナタウンでのペスト対策として、保健機関は教会の近くのチャイナタウン地区を燃やすという徹底した手段を取りました。火花が木造の教会の尖塔にも降りかかり、炎はレンガ壁だけを残して建物全体を包みました。

3回目の建築―プロテスタントのカウマカピリ教会(1910-)

その後、教会はベレタニア通りの敷地から現在のパラマ通りに移りました。
1910年5月7日、ハロルド・R.アードマン師(ローウェル・スミス師のひ孫)は3回目の教会の修復を行ないました。そして、第89回「Aha Paeaina」が開催された日と同じ日、1911年6月25日に教会は完成したのです。
1912年9月13日、オリジナルの2つのステンドグラスが捧げられたその日に、ローウェル・スミス師の偉大な子孫、ローウェルS.ジリンハムは洗礼をうけました。 1920年代後半から50年代前半、彼女が司祭になり、ハワイの人々と教会との関係を深めていったのです。
現在の教会に残るステンドグラス、椅子、パイプオルガン、すべてコア(ハワイに自生する樫の木)で造られた聖壇などに、ハワイの人々に愛された思い出と歴史があるのです。
そして現在では、カウマカピリ教会は「ハワイの教会の女王」として知られています。

現在のカウマカピリ教会(-現在)

そして、ハワイアンの人々に愛され続けたカウマカピリ教会は、歴史あるステンドグラスをそのままに、ビショップ財団監修の下、パイプオルガン等を修復し、2005年1月より、組数限定にて日本人挙式の受け入れを開始し、現在3年目を迎えます。

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